手を洗う場所が、もし世界に一か所しかなかったら…

もしそうだったら、みんながそこに手を洗いに集まって来ます。
全ての人間と、全てのアライグマが、その場所に来て手を洗います。

地球外に生命体が存在するのかしないのかは分からないけど、
もし、宇宙のどこかにいたとして、
かつ、それがもし手を洗うタイプの生命体であった場合には、
その生命体も来て、手を洗います。

世界に一か所しかない手を洗う場所に、全ての人間と、全てのアライグマと、
全ての手を洗うタイプの宇宙の生命体がやって来ます。

もしそうなったら、そこには長い長い、順番待ちの行列ができます。
野を山を越えてどこまでも続く、永遠に続く、長い長い行列ができます。

そして、もしそうなったら俺は…

俺は、行列に並ぶ人たちにお弁当やお菓子、ビールに雑誌、雑煮などを売ってまわる、
売り子のアルバイトをしなければなりません。
そんな仕事やりたくないけど、でも、やらなければなりません。

なぜならそれは 「義務」 だからです。 

ああ 嫌だ。
嫌だ 嫌だ やりたくない やりたくない。
- | 2012.03.05 Monday | 記事URL | comments(7)


わたしたち人間の生活は、ほかの動物たちのそれとはだいぶ違うので、ふだん人として社会生活を送っていると、人もまた動物であるということを忘れがちになります。でも、当たり前のことながら、人間は動物です。

人間はほかの動物達よりも、ほんの少し複雑な脳の進化のしかたをして、そのせいで、ほんの少しややこしい生き方をしているだけです。だから人間とほかの動物達とを、根本的に区別するような境界線なんて本当はどこにも存在しないのです。

それでは、人間とそのほかの動物とを、見分ける方法はあるのでしょうか?根本的な区別のないはずの両者を見分けるには、いったいどうすれば良いのでしょうか。

実は、簡単な方法がひとつだけあります。
それは、『腕時計をしてるか、してないか』 で見分ける方法です。

動物のなかで腕時計をしているのは、人間だけです。だから、その動物がもし腕時計をしていれば、人間だし、もし腕時計をしていなければ、人間以外の動物であると簡単に見分けることができるのです。

いかがでしたでしょうか。皆さんもこの方法で、人間と人間以外の動物をガンガン見分けていって頂ければと思います。

よろしくお願いいたします。
- | 2012.02.20 Monday | 記事URL | comments(5)


ある朝、わたしは、まだ誰も登ったことがないという、その村でいちばん高い木に、登る決意をした。

村のみんなにそのことを話すと、誰もが、そんなことは無理に決まっている、登れるわけない、やめておけ、と言った。でもわたしは決意を変えなかった。わたしは子供の頃から運動も勉強もたいして得意じゃなかったけど、木登りだけは他の誰よりも得意だったので(魚をさばくのもかなり得意だったが)、自分になら絶対に登れるという自信があったのだ。

家族にも話してみたが、やはり、そんな大それたことがお前にできるわけがない、やめておけ、と言われた。それでも、わたしの決意は揺るがなかった。わたしは、みんなの反対をおしきって家を飛び出し、村でいちばん高い木がある場所へ走っていった。

そしてわたしは、村のみんなに見守られながら、木に登っていった。登りながらわたしは思った。確かにわたしには、例えば歌が上手いとか、踊りが上手とか、そういった他の人と比べて特に秀でた才は何もない。でも木登りだけは、それだけは、他の誰よりも得意なんだ(魚をさばくのも相当得意なのだが)。そのことを、今、証明してみせる、と。

そうしてわたしは、するすると慣れた身のこなしで、真ん中あたりの高さまで、調子よく、登っていった。しかし、真ん中を過ぎたあたりから先に進むにつれ、徐々に疲れを感じはじめ、お腹もすいてきて、家にすごく帰りたくなってきてしまった。家に帰って通販番組を観るともなく観つつ適当にインターネットをしたりしたいと思ってしまった。

でも、途中で諦めて木から降りたら、それこそ村の笑いものになると思い、がんばって、歯を食いしばって登りつづけて、とうとうてっぺんに辿り着いた。

てっぺんからは村全体が一望して見渡せた。その向こうに山々の稜線が見えた。空気は澄んでいて、手を延ばせば雲が掴めそうだった。真下を見ると、村のみんなが、手を振ってるのが見えた。みんなとてもちっぽけに見えた。まるで小エビのようだった。

そんな小エビみたいなみんなを見ていたら、なんだか急に色んなことが馬鹿らしくなってきたので、わたしは木から降りて家に帰って、勉強して、勉強して、勉強して、そしてMBAの資格をとった。
- | 2012.02.13 Monday | 記事URL | comments(7)


俺はいま、どっちの女を選ぶべきかで迷っている。

どっちの女もイイ女で、どっちも捨てがたいのだが、しかしいつまでも二人の女と同時に付き合い続けるわけにはいかない。どっちの女をとるのか、そろそろ決めなければならない。

女、というか、それは木なのだが、片方は裏山のてっぺんに生えていて、もう片方は村はずれの池のほとりに生えている。

この二人の女のうち、俺が本当に愛しているのは、どっちの女なのか。どっちの女が、本当に大切なのか。最近の俺は、寝ても覚めてもそんなことばかり考えている。そのせいで、仕事とか、人付き合いとか、日常の色んなことがおろそかになってるみたいで、仲間たちからも心配されている。

仲間たち、というか、それも木なのだが、心配してくれる彼らのためにも、そろそろケジメをつけなきゃいけないと俺は思う。

どっちの女(というかそれは木なのだが)をとるのか。俺はいま決断を迫られている。
- | 2012.02.06 Monday | 記事URL | comments(6)

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人間と人間との間にいるのが、間人です。ゲンニンと読みます。

ゲンニンは、人間と人間の間にしか存在しないので、例えば三人の人間の間には二人のゲンニンが、百人の人間の間には九十九人のゲンニンがいるはずです。

ところが、場合によっては、三人の人間の間に三人のゲンニンが、百人の人間の間に百人のゲンニンがいるケースがあるということを、私は発見してしまったのです。

どういうことなのか。図解してみましょう。




▼ 通常、三人の人間の間には、











▼ 二人のゲンニンがいます。











▼ ところがこのような場合、







▼ ゲンニンが一人増えて、三人に!






さらに、ゲンニンとゲンニンの間にいる、間ゲンニン(アイダゲンニンと読む)についても、同様のことが言えそうなのです。


▼ 三人の間人の間には、





▼ アイダゲンニンがなんと三人!






- | 2012.01.30 Monday | 記事URL | comments(14)

俺の住む家のすぐ近くに、新しくスーパーができる夢を見て目が覚めた。

夢によれば、そのスーパーはただのスーパーではなかった。そのスーパーは、スーパーを越えたスーパーで、そのスーパーで手に入らないものは何一つないというスーパーだった。

夢からさめてすぐ、俺は、きっとこれはただの夢じゃない、これは神さまのお告げに違いないと思い込み、夢で見たスーパーのあった場所へ、じっさいに行ってみることにした。

するとそこには、本当に新しいスーパーができていた。しかも、中に入ってみると、それは夢で見たとおりの、何でも売っているスーパーを越えたスーパーだった。

肉や野菜や日用雑貨が売ってるのはもちろん、愛や友情など、本来はお金じゃ買えないはずのものも、そのスーパーでは売っていた。そこまでは夢のとおりだった。それはまさに、スーパーを超えたスーパーだった。

ところが、夢と違うところが一つだけあった。軍手が売ってなかったのだ。

夢はしょせん、夢ということだ。
- | 2012.01.23 Monday | 記事URL | comments(5)

屁のこき方を忘れてしまった。

買い物に出かける前まではちゃんと憶えていたはずなのに、自転車に乗って出かけて、スーパーでうずら卵を買って、家に戻ってきたら、その時にはもう屁のこき方がわからなくなっていたのだ。

子供の頃、何度やってもダメだったのに、ある日をさかいに、急に補助輪無しでも自転車に乗れるようになったことがあったけど、今回はそれの逆だと思った。きのうまで普通に出来ていたことが、とつぜん出来なくなってしまった。

なぜ急に、屁のこき方を忘れてしまったのだろう?うずら卵がいけなかったのだろうか。それとも、マヤ歴が新しいサイクルに突入したことによる私の意識変容の結果、そうなったのだろうか。理由はわからないけれど、とにかくまずいことになったとわたしは思った。

なぜまずいのかというと、わたしは、次の日の朝の飛行機で日本を発ち、L.A.に行くことになっていたからだ。L.A.に行って、屁のこき方を忘れたなんて言ったら、外国人に笑われるに決まっている。だいたい、屁は英語でなんて言えばいいのか分からない。わたしはスーツケースを広げた部屋でひとり、途方に暮れた。

いくら思い出そうとしても、ダメだった。思い出そうとすると、頭が割れるように痛むのだった。もしかすると、何者かがどこかから、わたしが屁のこき方を思い出すのを阻止するための電磁波を、わたしの脳に送っているのかもしれない。もしそうならそいつを見つけ出し、電磁波を止めさせれば、屁のこき方が思い出せるかもしれない。そのようにも考えた。しかし、そいつを探し出している時間的余裕をわたしは持ち合わせていなかった。なぜならわたしは、L.A.に行かなくてはならなかったからだ。

どうしても思い出せない。だが…。着替えや電気シェーバーや薬の瓶をスーツケースに押し込みながら、わたしは考えた。だが、屁は、尻との関連性が高いものであることは確かだ。であるならば、おそらく尻をどうにかすれば屁がこけるはずだ、と。

たとえば、尻を温めてみたらどうだろう。尻を温めれば、案外かんたんに屁が出るんじゃなかろうか。わたしは、明日の支度を一時中断し、尻を温めてみることにした。尻をお湯につけてみたり、火に尻を近づけてみたり、日光にしばらく尻を当ててみたりしてみた。だが、ダメだった。尻がポカポカに温まっただけで、いっこうに屁の出てくる気配はなかった。

もっと強い刺激が必要なのかもしれない、とわたしは思った。あるいはもっと直接的な刺激が。そこで次に、半ば強引過ぎる向きもあったが、尻を引っ叩いて屁を出す作戦に打って出ることにした。布団叩きを隣の部屋から持ってきて、それで尻を思いっきり引っ叩いてみたり、友だちに電話をかけて家まで来てもらって、ワークブーツを履いてもらって、「ちょっと、おれのけつ蹴ってくんねえか?」と頼み、思いっきり尻を蹴ってもらったりした。だが、やはり屁は出なかった。

それでわたしは、肉体に直接与える刺激じゃ、ダメなのかもしれないと考えた。もう、そういう時代じゃないのかもしれない。現代は心の時代である。もっと、「尻」の「心」に響くような知的で芸術的なアプローチで、「屁」を引き出す必要があるのかもしれない。そう考えた。そこで今度は、クラシック・ミュージックを尻に聴かせてみることにした。わたしは中学・高校学時代は吹奏楽部だったので、自分でフルートをで吹いて、その美しい旋律を自分の尻に聞かせてやった。しかしそれでもダメだった。

わたしは絶望した。もはや「屁」と「尻」とで、どっちが「しり」でどっちが「へ」なのかすら分からなくなっていった。

そうこうしてる間に、日が暮れて、夜が更けて、朝になってしまった。仕方なくわたしは、うずら卵を食べてスーツケースを手にし家を出て空港に向かい、日本を発った。L.A.に着くまでの間、機内にてわたしはずっと、いったいどうすれば屁が出るのだろうかと、真っ青な顔で考え続けた。

しかし、そんな心配は無用だった。L.A.に着いたとたんに、屁は出た。
西海岸の自由な空気が、そうさせたのかもしれない。
- | 2012.01.16 Monday | 記事URL | comments(2)

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